kenny0808’s diary

小学校教員の日記。作文・読書教育。つくり手になる学びを探究する。

書きたいことを見つけに行こう

 

授業づくりネットワークNo.32―学び手中心の授業の始め方

授業づくりネットワークNo.32―学び手中心の授業の始め方

  • 発売日: 2019/04/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  前回のエントリーで、授業づくりネットワークの澤田さんの記事が、詩を読むきっかけとなったことをお話しました。実はこの本を手に取った前年度は初めてチャレンジした作家の時間で大失敗した年でした・・。「やってみないとわからない!」と始めた勢いは良かったものの、書きたいことに夢中になる子がいる一方で、「書きたいことが見つからない」と手が止まる子たちのフォローがうまくできなかったのです。「どうすれば、書きたいことが見つかるんだろう」そんな気持ちを抱えたまま、次第に作家の時間は「書きたいことを書く時間」ではなく、「書くことが見つからないのに、好きなことを書いていいよ」と言われる時間へと変わっていってしまいました。

 

どうすれば「書きたいことを書きたいように書く書き手」を育てることができるのでしょうか。香月正登は「子どもの論理で創る 国語の授業」で、子どもたちの書きたい想いと書ける見通しがあることが、書くことの学習指導においてカギとなると述べ、田中宏幸(2013※)の論を引用しつつ、次のように述べています。

 

書くこと(作文)の学習指導における実践上の課題は、「表現内容(想)の発見」と「表現形式(形)の習得」とをいかに統合していくかというところにある。学習者は、書く内容を見つけることができ、書き方に見通しが持てるようになると、表現意欲を高め、進んで書くようになる。
書きたいと思いと書ける見通し。子どもたちの内面にしっかり根付かせていくことができれば、今、生きているこの世界の見え方もより鮮やかに、変化に富んだものに見えてくるだろう。

 書く内容を見つける「題材集め」は、作家の時間でも重要とされている部分です。ぼくだって書きたいことがあって、今こうしてブログを書いています。書きたいことが見つからないのに書けるわけがありません。では、どうすれば書きたいことは見つかるのでしょうか。香月はその難しさを「生活実感の壁」と題して、こう述べています。


日記や行事作文は、その代表的な例であろう。生活の中で起こった出来事をありのままに、かつ、いきいきと語ることが求められる。しかし、生活文という独立した文章のジャンルはそもそも成立しない。私たちが書く文種は、すべて生活をベースにしているからである。 記録文、手紙文、案内状、報告文など然り、物語文という虚構の世界とて、生活と切り離された作品など考えられない。どこかで何かがつながっている。そういう意味ではすべてが生活であり、そこから目的や相手、状況によって、文章の表現形式が変化するだけである。やはり、書くことの基底には、「生活」があり、そこから生み出されてきた言葉こそが「自分の言葉」というのにふさわしい。

 どんな書き物も「生活」とは切り離すことはできないとした上で、香月はさらに生活実感そのものが希薄になりつつあると指摘します。
 

 では、それだけの生活時間が子どもたちの中に備わっているかといえば、生活時間そのものが年々希薄になっているのが現実だろう。地域の行事に参加する、自然とたわむれる、生活の苦労を味わう、そういった体験の不足が言われて久しい。社会が発展する一方で、人間としての感覚を失っているとすれば皮肉なものである。(略)
 こうした壁に向き合うためにも、日々の小さな体験(生活)の中に、新たな発見を見出し、生活実感を湧かせ、書くこと、書きたいことを内在化していく指導にもっと注力していってはどうだろうか。今日の朝顔さんに一言、徒競走第1コーナーのつぶやき、今日の一句など、生活感覚を掘り起こすことで知らない自分と出会うこともできる。書くことがなければ、書くことを見つけに行こう!

 家庭の状況や地域によって差が生まれてしまう日々の体験の中に、新たな発見を見出し、書くこと、書きたいことを内在化していく指導を意図的に組んでいくこと。書くことがなければ、書くことを見つけに行こう!という言葉がとても心強い。個人的には、詩の学習を通して、まず「言葉で遊んでみる」体験を積むことが大切じゃないかと考えている。まずは書くことを、作詩を楽しんでみること。アトウェルが言うように、書くサイクルを回しやすい詩の利点を生かしつつ、作品を創り出す楽しみを実感できるようにしていきたい。そのプロセスから、新たな発見を見出していけるように、それが徐々に生活感覚を掘り起こすきっかけとなるように。