kenny0808’s diary

小学校教員の日記。作文・読書教育。つくり手になる学びを探究する。

伝えたくても言えない思いがある

 卒業式の日に、昨年担任をしていた子たちから色紙をもらった。代表の子たちが中心となって準備をしていてくれていたらしい。2月ごろから休校になった学級の一年越しのメッセージだ。温かいメッセージもあったけど、中にはこんなメッセージが書かれていた。


「先生、これだけは直して。教室をきれいにすること」
そんなに汚かったかなー?と過去の写真を見返したり、振り返りを見返していると…あ…そういえば!

 このメッセージを書いてくれた2人は教室リフォームの取り組みに後ろ向きだったことを思い出した。あの時のボクは、自分よがりのリフォームは避けたいと、子どもたちにレイアウトを募ることにした。題して、教室リフォームレイアウトコンテスト。いろんなレイアウトが集まって、子どもたちと「ともに」教室環境をアレンジしていると思っていた。

 

表向きは子どもたちに意見を聞いている。

も…子どもたちが本当の意味でオーナーシップを持って、教室環境を変えていこうとしていたのだろうか?そんな疑問が湧いてきた。本当の意味というのは、子どもたち自身がコントローラを持って、自分たちで環境を変えていこうとする姿があったのかということ。こう問われると…今なら首を横に振るだろう。

 

「何のためのリフォームだったの?」と過去の自分に聞いてみる。「きっと教室リフォームを子ども主導に見せかけてやりたかったんでしょ?」と今のボクなら言うかな。レイアウトを変えることが子どもたちの学びやすさにつながっていたのか?子どもたち自身に教室をよりよくしていこうとする姿があったのか?

 

とにかく、いろんな形を試してやってみる。ただの模様替えだったのではないだろうか。「環境をアレンジしていく」意義は何も伝わっていなかったのではないだろうか。Facebookに投稿したとき、いろんな人から「ナイスアイデア!」といいねをもらった。それが嬉しくなかったわけでもなく、有頂天になっていたわけでもない。…でも、子どもたちが過ごしやすい場づくりへの配慮がなされていたとは思えない。机の配置が変わることにストレスが溜まっていた子もいただろうな。「教室をきれいにしてほしかった」というコメントが教室リフォームのことを指しているかは実際のところ分からないけど、伝えたくても言えなかったことがきっとあったんだろうな。あの時は気づけなかったこと。今も気づけていないこと。自分だけの物差しでいろんなものや事を測り取ろうとしてしまってるんじゃないか。そんな事を色紙のメッセージから考えてしまったのであった。

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読み手がいるから書き手が育つ

<保護者からのファンレター>
 作家の時間の文集に対して保護者からファンレターが届きました。クラス全体に対してやある子の作品に対してなど・・・温かいメッセージにエンパワメントされる子どもたちとボク。印象に残っているのは、ファンレターを読んでいるときの子どもたちの表情です。目が輝いています。

「ファンレターが届いています!」
「やったー。早く読んで読んで」
サークルタイムでファンレターを読み聞かせる時間は、ぼくと子どもたちの幸せな時間です。

 さて、ファンレターが届き始めてからのこと。小さな作家さんたちの作品づくりに対する熱意が、これまでとは比べ物にならないくらい高くなっています。例えば、これまで修正を拒みがちだった子たちが、ボクや子どもたちに何度も修正をお願いしてきたり、校正で何度も音読したり、読みやすくなるようにと原稿を書き直したりと、読者を意識して作品作りに向かえるようになってきています。

共有の時間も3学期から変わりました。

「セリフが多いから地の文を増やしたほうがいい」
「場面が急に変わりすぎ。二年間に何があったの?」
「比喩表現がいっぱい使われている」
「この後どうなるの?と思える展開がよかった」
「頭と心の法則を使った方がいい。~の場面の主人公の気持ちが知りたい」
「情景の法則で、主人公から見える景色をえがいた方が、読者は楽しめると思うよ」

 

子どもたちの成長にびっくり。
コメントは本物の作家のようです。

 

3学期もあと少し。
最後のチャレンジは評価です。
作品の自己評価に向けて動き出そう。

作家の時間〜詩のあれこれ〜

つっこむカンファラン

 詩の専門家ではないボクが、子どもたちの詩をどうカンファランスしていくのか。最初は「伝えたいことをそのまま書けばいいんでしょ?」と考えていた。けれど、さまざまな詩に関する書籍を手にとるうちに、分かってきたことは、「伝えたいことをそのまま書く」は詩を描く第一段階であるということ。言い換えれば「下書き」だ。大切なのはここから。その下書きのあとに、言葉を取捨選択したり、様々なレトリックを用いたりして、詩を磨き上げていく。この部分をミニレッスンで取り上げて、カンファランスのアドバイスに生かしていく。作家でいうと「修正」だ。そこで、参考にしている本がこれ。金井直さんの著書だ。(金井さんの本はあすこまさんのブログで紹介されている)

詩をつくろう (4年生)

詩をつくろう (4年生)

  • メディア: 単行本
 

(ボクが購入したのは2年生のシリーズ。Amazonではもう取り扱いされていなかった…。)

[読書]詩人が手加減なしで小学生の詩を批評。金井直「詩をつくろう◯年生」シリーズ | あすこまっ!

(金井さんの本について知るには、断然あすこまさんの記事の方がよいです。ボクの書き方はほんと薄っぺらい)

 

 さて、金井さんの本には児童詩が掲載されており、それぞれの詩に金井さんのアドバイスが記されている。そのアドバイスが結構真っ直ぐなもので、「これは表現としておかしい」「この言葉は余計だからいらない」「これはこの言葉を足した方がよい」と容赦なく、子どもたちの詩を切っている。子どもたちが目をキラキラさせながら、「できたよ!」と持ってきた詩に対して、自分は金井さんのようにはできないなーと思いながら、当初は読んでいた。でも、手直しされた詩はどれも、「伝えたいこと」が失われず、それがより輝きを増して浮かび上がってくるような仕上がりになっていた。「カンファランスでダメ出しをするときは必ず提案がセットである事が条件」ナンシーの言葉が頭に浮かんだ。

 

1月の作家ジャンルは「詩」金井さんの本で紹介された詩を用いながら、①言葉をけずる②言葉を選ぶ③比喩表現④伝えたいことをはっきりさせるの4つをミニレッスンした。その他は、個人やグループカンファランスになるから、子どもたちの作品に合わせてアドバイス。金井さんのアドバイスで一番面白かったのは「楽しかった」と「またいきたい」「またやりたい」とストレートに書くなというもの。それなら、「あっという間の2日間だった」「夢中になって書き続けていた」など、別の表現で喜びを伝えようと提案だ。多少誇張してもよいから、詩に彩りを与えていく。これが今のカンファランスで意識していることかな。「この言葉はけずろう」って真っ直ぐに伝えている。もちろん、最後にどうするか決めるのは子どもたちだけどね。

 

「一番伝えたいことは何?」その問いを頼りに、言葉を削ったり、言い換えたり、補ったり…子どもたちにとってどうだろうか。

 

「どんな言葉を選べば、あなたの伝えたいことが読書に伝わるかな?」

「先生はこう思うけど、あなたらどうする?」

 

こちらにしても言葉を選ぶが大切。ただの添削で終わってしまっては、一般的な作文指導と変わらない。自己選択・自己決定を作家のサイクルにのせていく。こんなイメージかな。

排除アートと教室

記事を見つけた。

 

排除アートと過防備都市の誕生。不寛容をめぐるアートとデザイン

https://bijutsutecho.com/magazine/insight/23127

この記事がきっかけで、公共デザインに意識して目を向けてみようと思った。で、散歩がてら写真もとることにした。

記事の内容はざっくり言うと、
よかれと思ってつくられた環境が
誰かを排除する環境づくりに
起因しているんじゃないかというもの。
(多分そうだった)

その中で印象的だった事例が路上に設置させているベンチ。ベンチの真ん中にはキャラクターのオブジェがドンと真ん中に置かれていた。意図は分からない。

路上のベンチを寝床として使っている野宿生活者はたくさんいる。でも、そのデザインになったことで寝床代わりとなるベンチはなくなってしまった。野宿者の夜を支えてくれるベンチはそこにはない。ど真ん中のオブジェがもたらしてくれたことは何だろうか。市民が求めるベンチ本来の役割だろうか。

つくられたものには意図がある。
それが使いやすい人もいれば、
使いにくい人もいる。
使えない人もいる、かもしれない。

学校も同じだ。

働き方改革の元、所見欄は3学期のみになった。
これで失われたものは何だろう。
手に入ったものは何だろう。

これはあくまで一例。

○認知のちがいを支える環境

先日、授業づくりネットワークの
最新号を手にとった。
涌井さんのマルチプルの提案を見て、
自分の教室のことを振り返った。

ボクの教室は「書く」ことが中心。
例えば、振り返りジャーナルや
パフォーマンス課題のレポート。
作家の時間。どれも「書く」だ。

今年は書くことは苦手だけど、
話すことは得意だよという子たちが多い。
いきなり書くでは、うまく言語化出来ない。

だから、書く前にペアトーク
ホワイトボードミーティングを
頻繁にはさむようになった。
書く前に発散。とにかく話す。
先週はスピーチ原稿の作成前に、
ホワイトボードミーティングを行った。
ホワイトボードは写真に撮り、
一人一人に配布。
その写真を見ながら、
原稿を書くことにした。
結果、全員が原稿をつくることができた。

話すことをなくして、
書くだけにすればどうなっていただろう。
きっと、手が止まる子たちが多かったと思う。
(もちろん、話すことが苦手な子もいる)

ホワイトボードミーティングは
ファシリテーターの修行として
くりかえし取り組んでいた時期と
比べると、
今はその実践を
「書いて表現するまでの足場かけ」
としている自分がいる。
誰かの学びを促進するもの。
ファシリテーション。言葉の通りだ。

「そのデザインは何のため?だれのため?」
「それは誰の学びやすさにつながるの?

学校目標と7つのエッセンス

重なる教育の目的~理想の人間像(子ども象)

 

「学ぶ意欲を持ち、人と豊かに関わるしなやかな子の育成」

勤務校の学校目標です。 うん、よい目標だ。

じゃあ、具体的にどんな子ども像を掲げているかというと…

  • よく考える子
  • 思いやりのある子
  • 創造し、実践する子

と記されている。

 

「よく考えるってどんな感じ?」

「思いやりのある子って、どんな子だろう?」

「創造するというと?」

 

一つ一つな言葉を具体に落としていく。そんなやりとりを重ねたいんだけど、「大人の対話の時間」をつくるのってそんな簡単なことじゃない。 じっくりと対話し、時には対立もしながら、ともにつくっていくプロセスを重ねる。その価値を実感している大人たちは、子どもたちにも対話で決めていく場を委ねることができるんだろうな。

 

はてさて、そんなことを言っても、今のボクの立場でどうこうできることではないので、既存の目標を大いに活かすしかない。ってことで、大元である学習指導要領も眺めてみたんだな。学習指導要領は10年ごとに改訂されるけど、ここは変わらない。一条校共通の目的だ。

 

教育基本法(教育の目的)

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

引用先 文部科学省のホームページhttps://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/index.htm

 

「平和で民主的な国家及び社会の形成者」を育てることが教育のゴール。

その目的を実現するために、次のような目標がかかげられている。

 

第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

引用先 文部科学省のホームページhttps://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/index.htm

 

うんうん、学校目標や具体的に伸ばしたい力とも重なる。そりゃそうだよね。大本は学習指導要領に準じているのだから。1つ1つの目標をよく見てみると、自分がチャレンジしているサークルタイムや自由進度算数、作家の時間など…それぞれの目的と教科の目標と合わせて伝えれば説得力が生まれそうだ。

 

さらに、最近くりかえし読んでいるイエナプランの本も目が離せない。温かい言葉で語られるイエナプラン校の学校観や教育観は、日本の学習指導要領に通ずる部分がある。

 

終末のページで、オランダ・イエナプラン協会会長のピーター・ファンデイクは学校の意義をこう語っている。

「学校は何をするところ」

 子どもたちはイエナプランスクールで共に働くことによって、後に社会において、平和で民主的な社会を共同で築いていくことができるようになるために学んでいるのです。他者と共に働くことは、一人で働くよりもずっと大きなことを達成することにつながります。そこで生み出される全体の力は、一人ひとりの力の総和以上のものになるのです。それを達成できるように、子どもたちは、お互いにコミュニケーションをとったり、一緒に何かに取り組んだり、計画をしたり、生み出したり、リフレクションをしたり、プレゼンテーションをしたり、互いに責任を持ち合ったりすることを学ぶ必要があるのです。

*1

 

「平和で民主的な社会を共同で築く」言葉はちがえど、イエナプランも日本の一条校も目指しているゴールは同じなのだ。ただ、そこにたどり着くまでの対話量には圧倒的な差がある。自分たちの腹に落ちていないから、自分たちの言葉で語ることができない。やはり、大人が対話すること。ここを諦めたくない。(簡単じゃないから、まずは手元のことから小さな対話を・・・)

 

7つのエッセンスの導入

2学期後半より、授業づくりと子どもたちの自己評価に、イエナプランの「7かけ7」7つのエッセンスを取り入れてみた。7つのエッセンスは、平和で民主的な社会を共同で築いていくための理想的な人間像を7項目に分けてまとめられている。

 

  1. 物事に自ら積極的に取り組み
  2. 計画を立てることができ、
  3. 他者と協働でき、
  4. 何かを生み出すことができ、
  5. それをプレゼンテーションでき、
  6. 自分の努力について考えたり振り返ることができ
  7. 責任を負うことができ、また負いたいと考えらえる人間です

 

 上のエッセンスの内容は、学習指導要領が掲げている方針と何ら矛盾することはない。日々の実践の中にしっかりと目標をもって、こうしたエッセンスを組み込んでいく。勤務校の教育目標にも照らしながら、日々の教育活動を学校としてのビジョンありきで進めていければなと思う。ぼく個人の願いではなく、国として、学校としての目標を達成するための教育活動として、保護者や同僚に発信できるように・・・。

7つのエッセンスはしばらく試験的な運用からです。各教科の指導計画に組み込み、子どもたちにどんな学びを提供できるのか、またそれらのエッセンスについて練習するには、どのような授業を企画すれば良いかシュミレーションしていこう。

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*1:イエナプラン 共に生きることを学ぶ学校 242項より一部抜粋

作家の時間の実践原稿①〜頭と心の法則〜

「頭と心の法則」とはインザミドルの第4章書き手を育てる・ミニ レッスンで紹介されている書き手の技だ。前回の作家の時間のミニレッスンで、さっそく紹介してみた。と、ぼくの話の前に、まずは「頭と心の法則」の説明から。 以下引用。

 

「それで?の法則」とペアになるのが「頭と心の法則です。書き手 が、自分の頭と心―そしてフィクションを書いている時には主要な登場人物の頭と心 を「採掘」し、そこでも見つけたものを描写し始めることで、もっと大きな鉱脈、つ まりテーマを割り当てるための準備を整えるのだ、という法則です。

「頭と心の法則」が生まれるまでのプロセスを、ナンシーはこのよ うに記しています。

「どうしてこんなに退屈な話に仕上がってしまうのだろう。その理 由がはっきりしな
いまま、私は「もっと描写を充実させ、新たな情報を織り込みなさ い」と、今思えば
的外れの助言をしていました。その結果、生徒たちの詩や回想録は どうなったのでしょう。夜明けに上った「すごく高い」山で見た「まずしいピンク色の 」日の出。子ども時代の「すごく、すごく仲良し」親友との別れ。「ピンク色の肌の 」新しい家族の誕生。「1階建ての校舎から2階建ての校舎への」転校・・・。いっ そう冗長で退屈な作品ばかりになったのです。

会話文だらけの物語や「したこと」だけに終始する作品を目にするたびにぼくのカンファランスも同じ ようなアドバイスがくりかえしていた。
「(子どもたちの作品のよいところを伝えた後に・・・)もっとく わしく書いたほうが伝わるよ。そのときの場面の状況や主人公の動きや表情が読者に 伝わると、ドキドキやワクワクが伝わるんじゃないかな。あなたならどこに書き加え られそう?」といった具合に。カンファランスをくりかすと、子どもたちの作品は少しずつ変わっていた。主人公の動きや気持ち、主人公の紹介や場の設定などの情報ももり こめるようになって、作品がよりよくなっていく実感を子どもたちも持てるよ うになった。ナンシーほど、子どもたちの作品を悲観してはいなかったけど・・ ・、似たカンファランスが各所で続いていたこともあり、子どもたちにとって必要性 の高いものを「作家の技」として伝えたくなった。カンファランスのたびに振り返る のも大事だけど、「技」が使えているかどうかの視点で自分の文章を読み返せるよう になってほしかったから。そこで、何かいいネーミングはないかなーとライティング ワークショップの本を読み返してときに目にとまったのが、ナンシーの「頭と心の法 則」だった。

 ミニレッスンでは、僕の中学時代の野球部の話をえがいた散文詩「最後の夏」を 題材に「頭と心の法則」について教えることにした。

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「今から先生の作品を読みま す。この詩の中に、先生が自分の頭で考えたことや感じたことがわかるように、それが 君たちに伝わるようにと、下書き段階から時間をかけて言葉を書き足しています。見 つけたら線を引いてみてください」

「あ、無我夢中って言葉」

「心臓のこどうが早くなる」

「汗がとまらないって緊張してるってこだよね」

頭と心の法則はネーミングもいい。

「これは頭で考えたことだよねー。これは心だ。」と言った感じで、次々と書き手の工夫を見つけていく。

「そうそう。自分や主人公が頭で考えたこと、心で感じたことがなければ、読者を話のなかに引き込むことはできないんだよね。この技を「頭と心の法則」といいます。君たちの作品にもこの法則が使えられるところはあるかな?一緒に考えてみよう」

 カンファランスの時間は、頭と心の法則を使うといいなと思える場所に☆印をつけた。これはナンシーの追試。☆箇所に情報をつけたしていく。子どもたちも「☆のところを見て」と、修正のしやすさにつながっているようだった。

 共有の時間。作品はAに紹介してもらうことにした。Aの作品は 、学級で行っている漢字スキルテストで競争しているライバルBとの出来事が書かれて いた。自分の経験が題材になっていたこと、スイミーを教材にして伝えた比喩表現が 使われていたんだよね。共有タイムでどの作品を紹介するのかは結構大事な部分だと 思っていて(本にもそう書かれていたような・・・)、ともかく、この時間をどう扱うかで、教師が作家で大切にしてほしいことの伝わり方も変わっていく。身近な経験が題材にもなっていて、一粒の小石の法則にも触れることができるとも思った。子どもたちの作品は、よりよい作家となっていくヒントが満載だ。本当に面白い。 

見えてる景色のちがいと分けること

正しくは見えてる景色のちがい(と分断)って書きたかった。けど、なんかなって思って。

以前、ある方と話題になった「実践の願い」の話を思い出す。作家の時間を優れた書き手を育てるためにする人もいれば、書くことから目を背ける彼が鉛筆を握るきっかけに、と始める人もいる。ボクはどちらかというと後者の方。自由進度は個に寄り添うための手段として、作家の時間は自由に書くことがもたらすケア的な側面として…。実践者によって、実践にこめる願いはちがう。実践名は同じでも、目の前に広がる景色のちがいで、滲み出る色は変わっていく。

 新しい学校の可能性が分断を生み出すきっかけになる。新しい学校そのものが悪いんじゃなくて、それと対極にあると語られる今の公教育。制度的疲労世界に達しているかもしれないと言われる学校教育システムは、先見性のある人たちから捨てられていくと言われると、消えてしまいそうな気持ちになるのは自分だけだろうか。誰かの操作が(その人にその意図はなくとも)、古い慣習に捉われている人々を透明にしていく。まぁ、こんなことを分かっている風に書いている自分も、今にも消えそうな一部分なのかもしれない。簡単に簡単に分けられていく。そのことに敏感でいたいな。ボクも無意識でいると分ける側にいるかもしれないから。