kenny0808’s diary

小学校教員の日記。作文・読書教育。つくり手になる学びを探究する。

排除アートと教室

記事を見つけた。

 

排除アートと過防備都市の誕生。不寛容をめぐるアートとデザイン

https://bijutsutecho.com/magazine/insight/23127

この記事がきっかけで、公共デザインに意識して目を向けてみようと思った。で、散歩がてら写真もとることにした。

記事の内容はざっくり言うと、
よかれと思ってつくられた環境が
誰かを排除する環境づくりに
起因しているんじゃないかというもの。
(多分そうだった)

その中で印象的だった事例が路上に設置させているベンチ。ベンチの真ん中にはキャラクターのオブジェがドンと真ん中に置かれていた。意図は分からない。

路上のベンチを寝床として使っている野宿生活者はたくさんいる。でも、そのデザインになったことで寝床代わりとなるベンチはなくなってしまった。野宿者の夜を支えてくれるベンチはそこにはない。ど真ん中のオブジェがもたらしてくれたことは何だろうか。市民が求めるベンチ本来の役割だろうか。

つくられたものには意図がある。
それが使いやすい人もいれば、
使いにくい人もいる。
使えない人もいる、かもしれない。

学校も同じだ。

働き方改革の元、所見欄は3学期のみになった。
これで失われたものは何だろう。
手に入ったものは何だろう。

これはあくまで一例。

○認知のちがいを支える環境

先日、授業づくりネットワークの
最新号を手にとった。
涌井さんのマルチプルの提案を見て、
自分の教室のことを振り返った。

ボクの教室は「書く」ことが中心。
例えば、振り返りジャーナルや
パフォーマンス課題のレポート。
作家の時間。どれも「書く」だ。

今年は書くことは苦手だけど、
話すことは得意だよという子たちが多い。
いきなり書くでは、うまく言語化出来ない。

だから、書く前にペアトーク
ホワイトボードミーティングを
頻繁にはさむようになった。
書く前に発散。とにかく話す。
先週はスピーチ原稿の作成前に、
ホワイトボードミーティングを行った。
ホワイトボードは写真に撮り、
一人一人に配布。
その写真を見ながら、
原稿を書くことにした。
結果、全員が原稿をつくることができた。

話すことをなくして、
書くだけにすればどうなっていただろう。
きっと、手が止まる子たちが多かったと思う。
(もちろん、話すことが苦手な子もいる)

ホワイトボードミーティングは
ファシリテーターの修行として
くりかえし取り組んでいた時期と
比べると、
今はその実践を
「書いて表現するまでの足場かけ」
としている自分がいる。
誰かの学びを促進するもの。
ファシリテーション。言葉の通りだ。

「そのデザインは何のため?だれのため?」
「それは誰の学びやすさにつながるの?