kenny0808’s diary

小学校教員の日記。作文・読書教育。つくり手になる学びを探究する。

見えてる景色のちがいと分けること

正しくは見えてる景色のちがい(と分断)って書きたかった。けど、なんかなって思って。

以前、ある方と話題になった「実践の願い」の話を思い出す。作家の時間を優れた書き手を育てるためにする人もいれば、書くことから目を背ける彼が鉛筆を握るきっかけに、と始める人もいる。ボクはどちらかというと後者の方。自由進度は個に寄り添うための手段として、作家の時間は自由に書くことがもたらすケア的な側面として…。実践者によって、実践にこめる願いはちがう。実践名は同じでも、目の前に広がる景色のちがいで、滲み出る色は変わっていく。

 新しい学校の可能性が分断を生み出すきっかけになる。新しい学校そのものが悪いんじゃなくて、それと対極にあると語られる今の公教育。制度的疲労世界に達しているかもしれないと言われる学校教育システムは、先見性のある人たちから捨てられていくと言われると、消えてしまいそうな気持ちになるのは自分だけだろうか。誰かの操作が(その人にその意図はなくとも)、古い慣習に捉われている人々を透明にしていく。まぁ、こんなことを分かっている風に書いている自分も、今にも消えそうな一部分なのかもしれない。簡単に簡単に分けられていく。そのことに敏感でいたいな。ボクも無意識でいると分ける側にいるかもしれないから。